心理的利己主義
心理的利己主義とは次のような論理である。
人間のすべての行為は利己的なものである。 隣人愛と呼ばれるものも、他人の欲望を満たす手助けをすることができるという自分の力を実感したいという利己的行為である。 しかし当人は、「それは隣人愛であって自分は利己主義者ではない」という自分が受け入れやすい理由で説明したがるものである。
これは、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)(1588〜1679)の主張である。 ホッブズは中世の道徳から決別し、新たな視点で法のありかたや道徳について論理構築したイギリスの政治学者、哲学者として知られる。 彼は、人間とは自己保存欲で動く利己的存在であることを認め、その上でその自己保存のために法と道徳が必要と説いた。 人間は外的作用により各自のパワーが増大するとき心地よく感じ、減少するときは不快感を味わう。 心地よくするものは善であり、不快にするものは悪である。 だが、外的作用の善悪は個人ごとに異なるので、誰にも共通する一般的善悪の基準は存在しない。 人間の理性にしても、絶対的に正しい理性なるものは存在しない。 誰しもが自分の理性こそが正しいと考えており、それは人によって異なる。 そこで一定の人々の理性をもって正しい理性とし、それをもって行動の共通規範すなわち法律とすることが必要となる。
彼はつぎの自然権や自然法を唱えたことでも知られる。
各人が自分自身の自然状態すなわち自分自身の生を維持するために、自分の欲するままに自己の力を用いるという、各人が持つ自由を「自然権」という。
理性によって発見される戒律または一般法則を「自然法」といい、これによって人間は自らの命を傷つけることや命を維持する手段を奪い去ることを禁じられ、また命を維持するのに最もよいと思うことを避けることを禁じられる。
さて、心理的利己主義は正しいのだろうか。 この質問に答える前に、そもそも「正しい」とはなにか、考えていただきたい。 ある考え方で人々の行動を説明できるとき、その考え方は常に「正しい」といっていいのだろうか。 ただ「説明できる」だけでなく、「無理なく説明できる」ことが必要ではないか。 さらには、単に「説明できる」だけでは、他の考え方が「正しくない」ことの証明にはなっていないことも忘れてはならない。
自発的になされる行為は、それが利己的にみえようと非利己的にみえようと、その人が最もやりたいことをやっているのは確かである。 すなわちその人は自ら欲することをしている。 したがって論理的にそれは利己的行為である。
こう言われるとそうかと思うかもしれない。 だが、人は本当に自ら欲すること以外はしないのだろうか。 よほどの変わり者でないかぎり試験など受けたくないのが普通である。 それでも、資格を取りたいなどの目的があるときは試験を受ける。 それも「自ら欲する行為」というべきなのだろうか。 この場合は、目的の達成を欲するからの行為で、目的達成までの全体を考えると、やはり「自ら欲する行為」だと思う人もいるかもしれない。 だが、やりたくなくても、約束を破りたくないから渋々何かをすることも多いだろう。 そのような行為も本当に「自ら欲する行為」だろうか。 それですらも、約束を破りたくないという欲望からくる行為だといいくるめることはできる。 だが、さすがにそれは屁理屈だと感じないだろうか。
さらに上記の論理は「困っている人を助ける行為」を非利己的行為と呼ぶことが正しくないという説明にはなっていない。 素直に考えるなら、「困っている人を助ける行為」こそ、非利己的行為であり、利己的行為と呼ぶのはあまりにこじつけである。 本人は別に非利己的に振舞おうとしたわけではなく、自ら欲する行為をしたに過ぎないときも、その結果が他人の幸福にもつながる場合、それをことさら「利己的」と呼ぶのは無理があるのではないか。
心理的利己主義を説かれるとつい説得されてしまいがちである。 心理的利己主義はまちがいだと主張する気はない。 しかし心理的利己主義は単なる論理であって、絶対的真理ではないことだけは確かである。
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