性善説か性悪説か

孟子の唱えた「性善説」と荀氏の唱えた「性悪説」についておさらいをしたいかたは こちらを読んでください。 私自身としては、どちらも正しいとしか言いようがない。
そもそも孟子は「人間は生まれながらにして善である」などと言っていない。 特別な教育を受けなくとも普通は「善」なる性質をもつと言っているのであって、 これは誰も否定できない。 荀氏は「人間の本性は悪である」と言い切っている。 しかし彼が本当に言いたかったのは、それに続く 「善というのは偽すなわち後天的な作為の矯正によるもの」 という部分であろう。 荀氏は教育の重要性を説きたかったのである。
狼に育てられた少女の話は「まゆつば」らしいが、 親が貧困のため養育を放棄し小屋に閉じ込められていた姉弟の話などから、 人間が人間となるのは家庭も含めた社会生活を通してであることは 明白である。 社会生活により善悪の判断ができるようになっていく。 そして孟子の言うように、善なる性質をもつ。 それも 心理学的利己主義 なのかもしれないが、それはどうでも良い。
人間はまた、荀氏の言うように「悪」なる心ももっている。 それ以上の問題として、複雑な現代社会では「善い」と思ってした行為が 結果的には「悪」であったということがありうるのである。 ここに教育の必要性が出てくる。
この教育の必要性の認識が日本人は甘いということを主張したい人がよく、 「日本人は性善説で、欧米人は性悪説である」と言う。 このような使い方が正しいかどうかは分からないが、 倫理教育の必要性の認識が甘いことに関しては同感である。 そう書くと、戦前の修身教育の復活をもくろむ輩と言われそうで恐いが、 そんな気は毛頭ない。 私が主張したいのは、初等教育などでの道徳教育ではなく、 大学での職業倫理教育の必要性である。 大学は職業学校と違って、単に技術だけを教えるところではないはずである。 指導者になる者はきちんとした倫理観をもっていなければならない。 あたりまえのことである。 そのために大学では liberal arts =教養科目を教えているのかもしれない。 だが、現状ではその liberal arts が専門科目と遊離しすぎてはいないか?
ここまでくると、大学で学ぶ者の責任というより 大学のカリキュラムを考える者の責任が重要になる。 そんな反省から、浅学非才を省みずにこの講義ノートを作っています。 どうか暖かい目で見てください。

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