性善説と性悪説
性善説は四書の一つである「孟子」すなわち孟子と弟子の問答集の第三巻
「公孫丑章句」すなわち公孫丑との対話の中に出てくる。
孟先生がいわれた。
「人間はだれでも、他人の悲しみを見すごすことのできない同情心をもっている。昔の
りっぱな王様は、他人の悲しみに同情する心をもつばかりでなく、他人の悲しみに同情
する政治をもたれた。他人の悲しみに同情する心で、他人の悲しみに同情する政治を実
行することができたならば、天下を治めるのは、まるで手のひらの上でころがすように
、自在にできるであろう。人間はだれでも、他人の悲しみに同情する心をもっていると
いうわけは、今かりに、子供が井戸に落ちかけているのを見かけたら、人はだれでも驚
きあわて、いたたまれない感情になる。子供の父母に懇意になろうという底意があるわ
けではない。地方団体や仲間で、人命救助の名誉と評判を得たいからではない。これを
見すごしたら、無情な人間だという悪名をたてられはしないかと思うからでもない。こ
のことから考えてみると、いたたまれない感情をもたぬ者は、人間ではない。羞恥の感
情をもたぬ者も、人間ではない。謙遜の感情をもたぬ者も、人間ではない。善いことを
善いとし、悪いことを悪いとする是非の感情をもたぬ者も、人間ではない。このいたた
まれない感情は、仁の端緒である。羞恥の感情は、義の端緒である。謙遜の感情は、礼
の端緒である。是非の感情は、智の端緒である。人がこういう四つの端緒をそなえてい
ることは、人間が四肢をそなえているようなものである。この四つの端緒をもちながら
、自分で仁義礼智を実行できぬというのは、自殺者である。自分の君主が仁義礼智が実
行できないという人は、自分の君主の殺害者である。すべて、この四つの端緒を自分の
内にそなえた者は、だれでもこれを拡大し充実することができる。火がはじめて燃えだ
し、泉源から水がはじめて流れ出すように、これを拡充すれば、じゅうぶんに世界を支
配することができるし、もしこれを拡充することができなければ、父母にさえじゅうぶ
んにつかえることはできないのである」
孟子、貝塚茂樹訳、世界の名著3 孔子 孟子、
中央公論社、1966、p.440. より
次が性悪説である。これは同じく儒家の荀氏の唱えたもので、「荀氏」第十七巻第二十三
性悪篇に以下のように書かれている。
人間の本性すなわち生まれつきの性質は悪であって、その善というのは偽すなわち後天
的な作為の矯正によるものである。さて考えてみるに、人間の本性には生まれつき利益
を追求する傾向がある。この傾向のままに行動すると、他人と争い奪いあうようになっ
て、お互いに譲りあうことがなくなるのである。また、人には生まれつき嫉んだり憎ん
だりする傾向がある。この傾向のままに行動すると、傷害ざたを起こすようになって、
お互いにまことを尽くして信頼しあうことがなくなるのである。また、人には生まれつ
き耳や目が、美しい声や美しい色彩を聞いたり見たりしたがる傾向がある。この傾向の
ままに行動すると、節度を越して放縦になり、礼儀の形式や道理をないがしろにするよ
うになるのである。
以上のことからすると、人の生まれつきの性質や心情のおもむくままに行動すると、き
っと争い奪いあうことになり、礼儀の形式や道理を無視するようになり、ついには世の
中が混乱に陥るようになるのである。だから、必ず先生の教える規範の感化や礼儀に導
かれて、はじめてお互いに譲りあうようになり、礼儀の形式や道理にかなうようになり
、世の中が平和に治まるのである。
以上のことからすると、人の生まれつきの性質は悪いものであることは明瞭である。し
たがって人の善い性質というのは、後天的な矯正によるものなのである。
荀氏、沢田多喜男・小野四平訳、世界の名著10 諸子百家、
中央公論社、1966、p.395. より
技術倫理のトップページへ