道徳哲学

カントは(I. Kant, 1724〜1804)は東プロシアのケーニヒスベルグに 馬具職人の子として生まれた。 ケーニヒスベルグ大学で哲学を学び、45歳で母校の教授となっている。 著書には「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」 「道徳形而上学原論」「永久平和のために」などがある。
カントは人間の尊さを人格ととらえ、人格主義の倫理学を確立した。 その思想は 「道徳の形而上学第2部:徳論の形而上学的基礎原理」 (岩波文庫、カント道徳哲学) の中によく読み取れる。 以下にその部分を示す。

第一篇 倫理学原理論

第二部 他人に対する徳の義務について

第二節 他人に対する、彼等に相応せる尊敬からの徳の義務について

要求一般を抑制すること、 即ち一人の自己愛が他人の自己愛によって任意に制限せられることは、 謙遜と称せられる。 他人から愛せられるに値することに関してこのような抑制の欠けていること (不謙遜)は利己(philautia)と称せられる。 然るに他人から尊敬せられようとする要求の過大なことは 自負(arrogantia)である。 私が他人に対して抱き、或は他人が私から要求しうる 尊敬(observantia aliis praestanda 他人に対して与うべき尊敬)は、 それ故他人に於ける尊厳(dignitas)、即ち如何なる価格をも持たず、 そして価値評価(aestimium)の対象をこれと交換することが出来るような 如何なる同価のものをももたないところの一つの価値の承認である。 −或るものを何らの価値をも持たないものとして評価することは軽蔑である。

何人も自己の隣人から尊敬せらるべき正当な要求を有っており、 そしてその代わりに彼はあらゆる他人に対しても尊敬すべきよう 義務づけられている。
人間性そのものは尊厳である。 何となれば人間は何人からも(他人からも亦自己自身からさえも) 単に手段として用いられ得ず、却って如何なる時にも同時に目的として 用いられねばならない、 そしてその点にまさしく彼の尊厳(人格性)が存するのであり、 それによって彼は人間以外の、 然も使用せられ得るあらゆる他の存在物、 従ってあらゆる物件よりも卓越したものであるから。 それ故に自己自身を如何なる価格に換えても譲り渡すこと (このことは自己尊重の義務に背反するであろう)が出来ないのと同様に、 まさにこの故に他人の人間としての必然的な自己尊重を蹂躙することは出来ない、 即ち人間は人間性の尊厳をあらゆる他人に於いても実践的に 承認すべき義務を負うているのである。 即ち彼にはあらゆる他人に対して必ず尊敬を致すべき義務が存するのである。

他人を軽蔑すること(contemnere)即ち人間一般にふさわしい尊敬を 他人に払わないことは、 如何なる場合に於いても義務に反している、 何となれば人間だからである。 勿論他人を相互に比較して一方を他方よりひそかに 低く評価すること(despicatui habere)は時として止むを得ないことであるにしても、 軽視をあからさまに表示することは無礼である。 −危険なものは軽蔑の対象とはならない、 それ故悪人もそうはならない。 そして悪人が何と攻撃しても私の方が優越しているので、 私は彼を軽蔑すると正当に言えるにしても、 それは次の事を意味するに過ぎない、 即ち彼は自分の悪人ぶりを自分で現わしているのだから、 たとい私が彼に対して身を護る用意をすこしもしないでいても、 彼を軽蔑したって少しの危険もない、 ということである。 それにも拘わらず、 私は少くとも人間たる性質に於いて彼から奪い去ることの出来ない 凡ゆる尊敬を悪人に対してさえも人間として拒むことは出来ない、 たとい彼が彼の行によって自らこのような尊敬に値しないものとなるにしても。 それ故に侮辱的な、人間性そのものを汚辱する刑罰 (例えば四肢を断ち切るとか、犬に噛みちぎらせるとか、 鼻や耳を削ぐとかいうような)が存在し得るのであるが、 これらは単に名誉心のある人(他人の尊敬を要求する人、 これを要求することは何人もなさねばならないのである)にとっては 財産や生命の喪失よりも一層苦痛であるばかりでなく、 更に之を観る者にとってはこのように取扱われてもよいようなものと 同じ種族に属することを恥じて赤面せざるを得ないことである。

(以下、省略)

道徳哲学、白井成允・小倉貞秀訳、岩波文庫カント道徳哲学、岩波書店、 1954、p.141. より

技術倫理のトップページへ