リヒテンバーグの反論
倫理規程は、正しい行動はいかにあるべきかを記述するものである。人々が倫理規程の
すべての条項に合意しなくても、規程がよく構成されていれば行動の手引きとして役立
つ。役立てているうちに行動の裏づけとなる信念が出てきて、よりよい社会になる。よ
りよい社会を作ることを倫理規程だけに求めるのは無理であるが、専門職が倫理規程を
持つことは持たないよりは道理にかなっている。
倫理規程の明文化は「人々は自律的なモラル行為者である」と推定する倫理の観念自体
と矛盾するというが、これは「倫理」の意味を誇張しすぎている。倫理規程中の制裁規
程の有無にも無関係に、倫理規程を明文化することが自己矛盾と主張するのは、強引な
論理である。
倫理的であることと、自由に選択された自律的行為が結果としてふさわしいということ
は、同じ意味であると言ってよい。われわれは人々が正しいこと(結果)を正しい理由
や動機(これには気質や性格が影響する)によって行うよう望んでいる。ここで、倫理
規程の人々の気質や性格への影響は直接的なものではないので脇におく。規程の目的は
、あくまで、人々が他の行動でなく「ある行動」をとる可能性を高めることにある。倫
理規程は人々に「ある行動」をとる理由を与えることができる。規程違反への制裁への
恐れなどである。それはモラルの純粋さを犯すものかもしれないが、悪いことではない
。純粋に美徳のために正しい行為をしてほしいと願望するからといって、倫理規程を望
ましくないものと決めつけるのは誤りである。
われわれにとって、また社会にとって、外部に向けての行動と、その行動の理由や動機
あるいは行為者の性格とでは、どちらが重要か。前者なら人々の自律性は大きな問題で
はなく、後者だと不可欠である。これは二者択一の問題ではないが、まずは前者であろ
う。
人々が「正しい理由で正しいことをする」ほうが、単に「正しいことをする」より好ま
しいのも確かである。自己規制のほうが外的制裁に頼るより、監視不要なことからも、
費用対効果が高い。だからといって、法による規制を否定することにはならない。
「モラルを法律にするべきではない」という主張と、「モラルを法律にすることはでき
ない」という事実は区別しなければならない。モラルはたしかに人の内面の問題である
が、外部に対する行動をコントロールする。法とモラルは長い歴史をみると互いに影響
しあってきているのも事実である。
「良い性格の人には正しい行為は容易である」という前提や「世の中は美徳のものと悪
徳のものに分けられる」という前提はいずれも間違いである。著しくモラルに反する行
為はしない普通の人々が、ある条件下では美徳の道から簡単に外れる。それを説明する
ため、人々の性質が卑劣であることを前提とする必要はない。順守したときの犠牲が大
きく違反したときの犠牲が小さいと人々は容易に道から外れる。倫理規程は、制裁のあ
るなしにかかわらず、それを防ぐ効果がある。倫理規程は人々に直面している状況を説
明させる働きを持つ。説明させられることで、人々はその行為の善悪について考えるよ
うになる。
倫理規程は、一定の行動基準を明示し、行為について説明させ、それに反する行動をと
りにくくさせる。このためには倫理規程は明確なものでなければならない。かつてアメ
リカ医師会では「医療行為における性的非行は非倫理的である」と規定していた。この
ような指針は無意味である。人々は自分のしていることは非行ではないという信念のも
とにこの規定を気楽に無視する。改訂版では解釈の余地を狭くして「医師−患者の関係
と同時に起きる性的な接触は性的非行である」としている。
倫理規程が人々に及ぼす影響は「考えないようにする強制である」と誤解してはならな
い。倫理規程は盲目的に服従するものであってはならない。倫理規程は人々の順守を期
待するものであるが、だからといって人々の行為が外部からの強制だけで決まることな
い。倫理規程が有用だと考えることは、倫理規程に人々が盲従することと同じ意味では
ない。
倫理規程のある条項に同意できない場合、二つの道がある。一つは単純に従わない「不
服従」である。もう一つは従うことには公衆が不同意であるとの認識のもとでの「良心
的不順守」である。重要な事項ほど単なる不服従は許されないだろう。ここで、あまり
重要でない条項への不順守は混乱のもとである。人々はスピード違反をどのように正当
化しているのか。大多数の人は速度制限に不同意だとして不服従を普遍化するのか、あ
るいはモラルの欠如と考えるのか。このような思考を倫理規程についても考えるべきで
ある。
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