功利主義論

J. S. ミル(J. S. Mill, 1806〜1873)は父の影響も受け、15歳の頃から 熱烈なベンサム主義者となった。 その後、20歳の頃に神経が麻痺したような症状に襲われ、生きる目標も失う という精神の危機を経験する。 このため幸福観が変化し、ベンサムの功利主義に疑問を持つようになる。 J. S. ミルの晩年の著作である「功利主義論」は、全ての快楽を量的に測ろうとした ベンサムの功利主義を修正し、いろいろな快楽には質的差があることを 主張している。 「功利主義論」の全体の構成は以下のとおりである。 以下に第二章の一部を示す。 かなり長いが、興味があるなら読んでいただきたい。

第二章 功利主義とは何か

(途中省略)

「功利」または「最大幸福の原理」を道徳的行為の基礎として受けいれる信条にしたが えば、行為は、幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っ ている。幸福とは快楽を、そして苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、そして快楽の 喪失を意味する。この説がたてた道徳の標準について明確な意見を述べようとすれば、 まだまだ多くのことをいわねばならない。とりわけ、苦痛と快楽の観念の中にどういう ものが含まれるのか、どの程度までこれが未解決の問題として残されているか、につい て触れなければならない。しかし、こういう補足的な説明は、この道徳説がもとづいて いる人生観−つまり、快楽、および苦痛の不在が、目的として望ましい唯一のものであ るという人生観、さらに、すべての望ましいもの(それは功利主義においても他説同様 たくさんある)は、その中に含まれた快楽のために、または快楽を増し苦痛を防ぐ手段 として、望ましいのだという人生観−には影響を与えない。

ところでこの人生観は、多くの人々に、とりわけその感情においてまた意図においても っとも尊重すべき人々に、抜きがたい嫌悪の念をよび起こしている。人生には(この人 たちによれば)快楽より高級な目的はないと考えること−熱望し追求する対象として快 楽より善く、快楽より高貴なものはないと考えること−を、この人たちはまったく野卑 下賎とみなし、豚向きの学説と称する。豚とは、はるか昔にエピクロス派の人たちが侮 蔑的になぞらえた動物であった。そして、現代にこの学説を奉ずる者は、ドイツ、フラ ンス、イギリスの攻撃者からしばしば同じ上品な比較の対象にされているのである。

豚と言われたとき、エピクロス派の人々はいつもこうこたえた。人間の本性を下劣な光 で照らしだしたのは自分たちではなく、反エピクロス派の者たちではないか、と。なぜ なら、反エピクロス派の非難は、人間が豚の快楽しか味わえないものと考えているから である。もしこの考えが正しければ、さきの非難は反論できなくなるが、そのかわり非 難でなくなってしまう。というのは、快楽の源泉が人間も豚もまったく同じというのな ら、一方にとって十分善である生活の準則は、他方にとっても十分善であろうから。 エピクロス派的生活と畜生の生活の比較がいかにも品のないことと感じられるのは、畜 生の快楽では、どうにも人間の幸福の概念を満足させないからである。人間は動物的欲 情をこえる高い能力をもつ。そして、いちどその能力を自覚すれば、それらを満足させ ないようなものを幸福とは考えなくなる。

私は実のところ、エピクロス派の人たちが功利主義的原理から結論の体系を引きだすと きに、欠点が少しもなかったとは考えない。満足にこれをやりとげるには、キリスト教 的要素とともに、ストア的要素をたくさんとり入れなければならない。けれども、エピ クロス派の人生観として知られているもので、知性や、感情と想像や、道徳的心情やら の快楽に、単なる感覚の快楽をはるかに上まわる高い価値を与えていないものはない。 もっとも功利主義的著作者たちが一般に、精神的な快楽を肉体的な快楽以上に尊重した のは、主として永続性,安全性、低費用性などの点−つまり、内的本性よりも外的利点 −で精神的な快楽のほうがすぐれているからであったことは認めなければならない。そ して、これらすべての点について功利主義者は、自分たちの立場を十分明らかにしてい る。しかし、彼らは、少しも矛盾なく他の理由を、それも、もっと高級といえる理由を 採用できたはずである。つまり、ある種の快楽はほかの快楽よりもいっそう望ましく、 いっそう価値があるという事実を認めても、功利の原理とは少しも衝突しないのである 。ほかのものを評価するときには、量のほかに質も考慮されるのに、快楽の評価にかぎ って量だけでやれというのは不合理ではないか。

それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということだけでなく、快楽その ものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こうたずねられた ら、こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全 部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく 知っている人々が二つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がと もなうことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてもも との快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的にすぐれていて量を圧倒 しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない 。

ところで、両方を等しく知り、等しく感得し享受できる人々が、自分のもっている高級 な能力を使うような生活態度を断然選びとることは疑いのない事実である。畜生の快楽 をたっぷり与える約束がされたからといって、何かの下等動物に変わることに同意する 人はまずなかろう。馬鹿やのろまや悪者のほうが自分たち以上に自己の運命に満足して いることを知ったところで、頭のいい人が馬鹿になろうとは考えないだろうし、教育あ る人間が無学者に、親切で良心的な人が下劣な我利我利亡者になろうとは思わないだろ う。こういう人たちは、馬鹿者たちと共通してもっている欲望を全部、もっとも完全に 満足させられても、馬鹿者たちより余分にもっているものを放棄しないだろう。この人 たちが放棄を考えるようなことがあるとすれば、それは、極度の不幸に陥って、たとえ 彼らから見てどんなに望ましくなくても、自分の運命を他人の運命ととりかえるほかに その不幸を免れる途がないときにかぎられよう。高級な能力をもった人が幸福になるに は、劣等者より多くのものがいるし、おそらくは苦悩により敏感であり、また必ずやよ り多くの点で苦悩を受けやすいにちがいない。しかし、こういった数数の負担にもかか わらず、こんな人が心底から、より下劣と感じる存在に身を落とそうなどとはけっして 考えるものではない。

この、下劣な存在に身を落としたくないというためらいについては、なんとでも説明で きよう。たとえばそれを誇りに帰すこともできる。誇りとは、人類がもつことのできる もっとも尊敬すべき感情につけられた名称だが、また同時にもっとも尊敬すべからざる 感情の名称でもある。

また、これを、自由と個人の自主性への熱望のせいにしてもよい。こういうものに訴え ることが、ストア派にとって、このためらいの気持ちを銘記させるいちばん有効な手段 であった。

権力欲、または感激欲に帰すこともできよう。これらは現に、この下劣なものに身を落 としたくない気持ちの中にはいりこみ、この気持ちを助長している。

だが、それにいちばんふさわしい呼び名は、尊厳の感覚である。人間はだれでも、なん らかの形で尊厳の感覚をもっており、高級な能力と、厳密にではないが、ある程度比例 している。この感覚が強い者にとっては、これと衝突するものは、瞬時をのぞけば、い っさい欲求の対象たりえないほど、彼の幸福の本質的部分をなしている。この選択が、 幸福を犠牲にして行われると想像する者−同じような環境のもとでは、すぐれた人間は 劣った人間より幸福でないと想像する者−は、幸福と満足という二つの非常にちがう観 念を混同しているのである。感受能力の低い者は、それを十分満足させる機会にもっと も恵まれているが、豊かな天分をもつ者は、いつも、自分の求めうる幸福が、この世で は不完全なものでしかないと感じるであろうことはいうまでもない。しかしこういう人 も、不完全さが忍べるものであるかぎり、忍ぶことを習得できる。そして、不完全だか らといって、不完全さをまるで意識しない人間を羨んだりしないだろう。不完全さを意 識しないのは、このような不完全さをもつ(高級な)善を感じる能力が全然ないという ことだからである。

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満 足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった 意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らない からにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。

反論する者は、高級な快楽の感受能力をもつ多くが、ときどき誘惑に負けてそれらを捨 て、低級な快楽に走るではないかと言うかもしれない。だがこのことは、高級な快楽が 本質的にすぐれていることを全面的に承認することと少しも矛盾しない。人間はともす れば、性格の弱さから、価値が低いとわかっていながら手近の善を選ぶことがある。こ のことは、肉体の快楽と精神の快楽とのあいだで起こるだけでなく、二つの肉体的快楽 を選択するときにも起こってくる。たとえば、人間は肉欲にふけって健康を損うことが ある。健康がより大きい善であることを重々承知のうえで、である。

さらに反論する者は、若いときに高貴なものに熱中した人の多くが、年をとるにつれて 無精になり、利己主義に陥ってゆくのはどういうわけかときくであろう。しかし、この ごくありふれた変化をたどる人々が、自分から進んで高級な快楽を捨て、低級な快楽を 選んだとは、とうてい考えられない。私の信ずるところでは、低級な快楽に身をゆだね る前に、彼らはすでに高級な快楽が感じられなくなっているのだ。高貴な感情を受容す る能力は元来か弱い草木同然で、風雨にさらされたときはもちろんのこと、すこし養分 が不足するだけですぐ枯れしぼんでしまう。だから、大多数の青年にとって、社会的地 位にもとづいてついた職業や、その地位によって投げ込まれた社会が、この高級な受容 能力を発揮しつづけるのに不向きならば、たちまち消滅してしまうのである。

人々は、知的興味を失えば、高い向上心を失う。それらを味わう時間も機会もなくなる からである。だから、彼らが劣等な快楽に身をゆだねるのは、熟考の末ではなく、それ しか知らず、それしか味わったことがないからにすぎない。両等級の快楽を等しく感知 できる能力をもちつづけた人が、承知のうえで平然と低級な快楽を選んだことがこれま であるかどうかは疑わしい。もっとも、多くの人が、いつの世にも、両等級の快楽を同 時に実現しようとして失敗しているのであるが。

(途中省略)

功利主義を攻撃する人たちがほとんど認めてくれないことなので、ここでくり返してい っておきたい。功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、 関係者全部の幸福なのである。自分の幸福か他人の幸福かを選ぶときに功利主義が行為 者に要求するのは、利害関係をもたない善意の第三者のように厳正中立であれ、という ことである。

ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。お のれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主 義道徳の理想的極致である。この理想に近づく手段として、功利はこう命ずるであろう 。

第一に、法律と社会の仕組みが、各人の幸福や(もっと実際的にいえば)利益を、でき るだけ全体の利益と調和するように組み立てられていること。

第二に、教育と世論が人間の性格に対してもつ絶大な力を利用して、各個人に、自分の 幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること。とく に、社会全体の幸福を願うならば当然行なうべきだと思われる行動様式−さし控えたり 、積極的に行なったり、という−を実行することが、自分の幸福と切りはなせない関係 にあることを教えるべきである。

こうすれば人間は、社会全体の善に反するような行為を押しとおして自分の幸福を得よ うなどと考えなくなるだろう。さらには、全体の善を増進しようというひたむきな衝動 が各人を習慣的に動かすようになり、この衝動にともなう(利他的な)心情が各人の情 操面で大きく顕著な位置を占めるようになるだろう。

功利主義道徳を攻撃する人々が、このような功利主義の本当の性格を知ったあとで、他 の道徳のどんな美点がこの道徳に欠けているといえるか。他のどういう倫理体系が、人 間性をこれ以上に美しく気高く育てると考えられるのか。また、その倫理体系は、功利 主義のもたないどんな動因にもとづいて、その命令を実行させようとするのか、私には わからない。

(以下、省略)

功利主義論、伊原吉之助訳、世界の名著38 ベンサム J.S.ミル、中央公論社、 1967、p.465. より

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