串岡弘昭氏は1946年、富山県に生まれ、明治学院大学法学部を70年に卒業、 トナミ運輸に入社した。
大学時代は読売新聞の奨学生として働きながら学び、 そこで木元錦哉教授の独禁法と出会っている。 大卒の幹部候補生としてトナミ運輸に入社した串岡氏は、 横浜営業所、桶川営業所、岐阜営業所と転勤し業務を憶えていく。 1974年の岐阜営業所時代に串岡氏は内部告発に踏み切る。 そして現在に至るまでの30年もの壮絶な会社との闘いが始まるのである。
当時、運輸会社は運輸省が定めた認可運賃で営業することになっていた。 しかし各社は過当競争を避けるために談合し、違法な割増運賃をとっていた。 この状況を守るため、談合では「荷主移動の禁止」を取り決めていた。 要するに、他社から勝手に顧客を奪わないという取り決めである。 違反者には業者間会議で制裁処置を決め、科していた。 いわゆるヤミカルテルである。
正義感に燃える串岡氏は、この状況に不満を持ち、まず幹部に訴える。 幹部は業界の利益を守ることは当然という立場で耳を貸さない。 そこで最高幹部が岐阜営業所を訪ねてきたとき、直訴に及ぶ。 しかし最高幹部は「役員会で決めたことだ」と取り合わない。 串岡氏はこの状態に我慢ならなかった。 ヤミカルテルは明らかに違法である。 それを平然と会社ぐるみで容認している。
串岡氏は読売新聞社名古屋支局を訪ね、 業界のカルテル体質、会社の実態を詳しく話す。 そして新聞に 「50社ヤミ協定か 東海道路線トラック」 という見出しが躍る。 当然、会社は大騒ぎとなった。
2日後、自らに何らやましいことは無いと信じる串岡氏は、
上司に自分が内部告発者であることを告げた。
串岡氏はこの件について、
「理解してもらえると思った。あわよくば、
『おれも業界の正常化のために一肌脱ごう』
ぐらいのことは言ってもらえると思った」
と述べている。
上司は当然、さらに上に報告する。 本社から重役が飛んできて事情聴取が始まる。 身を守るため外部の労働組合に申し入れるやいなや、 東京本部に呼び出され毎日のように幹部から罵倒される。 そして転勤命令が下る。 罰としての配転とみて間違いなかろう。
串岡氏の告発後も、カルテル解消への動きは鈍かった。 これを不満とした串岡氏は、次いで公正取引委員会にも申し入れる。 会社はまた騒然となった。 東京本部に呼び出され、再び罵倒が始まった。 しかし串岡氏はまったくひるまず、地検の調査にも協力する。
1ヵ月後、人事部長代理から呼び出しがかかった。 「1週間ほど研修所に行ってみないか」 串岡氏は言う。 「この1週間というのがくせものだった」 1週間という約束は反故にされ、それ以降現在までの研修所勤務が始まる。 「研修所勤務の会社の狙いはまず隔離、そして辞表を書くように仕向けることだった」
3畳ほどの部屋があてがわれ、たまの仕事は草むしりやストーブへの給油、 雪下ろし、布団の整理など。 串岡氏は屈辱感に襲われる。 それだけではない。 自宅へ怪電話がひっきりなしにかかる。 尾行され、常に監視されているという脅迫観念を抱く。 暴力団員が自宅に押しかけてきて言う。 「会社を辞めないと、 組の若い者を使って交通事故を装ってあんたを轢き殺すこともできるんだよ。 飲酒運転で自宅にダンプを突っ込ませることもできる」
会社の退職強要は兄、母親、義兄にも及んだという。 脅迫にもめげず「最後は弟を守る」と断言した兄に、串岡氏は感謝している。 同時に串岡氏は、説得に失敗して退職に追い込まれた重役には、 「サラリーマンの悲哀を感じる」と同情までしている。
しかし内部告発の代償は脅迫やいじめだけでなく、 日々の生活を過酷なものとした。 55歳になっても手取りは新入社員並みの18万円。 それで子供2人を大学まで進ませている。 串岡氏は「わが心に恥じるものなし」と言い切る。 立派である。 立派過ぎる。 しかし家族全員の苦労を思うとき、私などは考え込んでしまう。
2002年1月29日、串岡氏は、4半世紀に及ぶ昇格差別、 人権侵害による経済的・精神的損失として4500万円の損害賠償と謝罪を求め、 トナミ運輸を提訴した。
この件についてもっと詳しく知りたければ、
串岡弘昭著、
「ホイッスルブローアー(内部告発者):我が心に恥じるものなし」、
桂書房
を読んでいただきたい。
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