人間形成の日米比較


恒吉僚子「人間形成の日米比較−かくれたカリキュラム」 中公新書(1992年) の中から少し抜粋する。

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人間は生まれながらにして罪深い存在である」。 当時の幼いアメリカ人たちは、自分たちの中に潜む罪深い本性について早くから諭されたのであった。子供は、堕落することなく、勤勉、倹約、忍耐などの徳を身につけなければならないと教えられた。一方、親は、子供の罪深い本性と果敢な闘いを繰り返し、悪行を罰し、矯正し、厳しくしつけ(discipline)なくてはならないと考えられたのであった。

こうした当時のピューリタン・カルヴァン主義的なアメリカ人の子供観は、一種の性悪説と呼べるものであるが、海を隔てた日本では、このような厳格かつ禁欲的な態度とは縁の薄い伝統の中で人々の子供観は形成されてきた。「罪も汚れもない子供」「七つまでは神のうち」というような日本人の考え方は、カルヴァン主義的な子供観とは対置しうる、性善説の色彩が強い。

日本の伝統的な子供観によれば、子供の本性は元来「善」であり、「悪」は子供の内にではなく、外の環境などに求められた。民俗学的資料からも、子供は、外の悪に汚れるまではそれほど悪いことをしないものであるという考え方が日本人の間では強かったことがうかがえる。その結果、自然な成長が促され、寛容なしつけが好まれたことが繰り返し指摘されてきた。

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日本の小学校では、 第一に、集団行動の機会が多く、学校成員間の煩雑な接触と情報交換が行われるような仕組みであり、第二に、集団行動が和やかで効率的に行われるように協調的な目標が多く設けられている。単位となる集団は、学級にせよ、班にせよ、一定期間固定され、同じ顔触れが緊密な接触を行う仕組みになっている。共通体験を通じてお互いに関する知識を蓄積していくことは、いちいち言葉で媒介しなくても相手のことがわかる状況をつくり出し、感情移入による意志伝達が機能する土壌になっていると思われる。

こうした特徴は、日本の他の組織でも観察され、日本の学校における経験が企業内での協調行動の布石になっているという主張なども、一つには、両者の構造的類似性に着目するところから生まれてくるのであろう。

三、アメリカ式「自己顕示術」

個別化と分業化

感情移入能力の育成につながるような集団行動と協調的目標とが多い日本の学校にくらべ、アメリカ側は、個人の違いに対応することを目的とした個別化された指導と、教師陣の分業化が発達している。

たとえば、(日本の)南校と比較して、ローレンス校だけに存在する指導を拾ってみると、能力別指導はもとより、カウンセリング、補償教育、特殊教育、ギフテッド教育、バイリンガル教育、スピーチ・セラピー、コンピュータ教育がある。

こうした指導の個別化に対応して、教師陣の間でも分業化が進み、特定の資格を持った、特殊教育学級の専門教師、スピーチ・セラピスト、心理学者、カウンセラーなどの「スペシャリスト」たちが雇用されている。

これらの専門家たちにはそれぞれの担当領域があり、他人がそれを侵すべきでないという了解がある。ある心理学者の言葉を借りれば、彼女のもとには家庭の問題を抱えているために勉強に集中できない子供が送られてくるが、家庭問題を背景とした子供のプライベートな悩みは、親に報告すべきものであって、「担任が関わるべき問題ではない」。こうして、国語の専門家が各学級児童の試験をし、能力別編成に使っているにもかかわらず、その児童たちと最も関わりのある担任教師たちは、どのような基準で評価が行われたかさえ知らされない、ということも起きてくるのである。

こうした分業化は、万能型の日本の教師から見ると、「たまにしか児童に接しないカウンセラーなどが、本当に児童のことが分かるのか」、という疑問を抱かせるものであろうし、スペシャリストとして誇りを持っているアメリカの「専門家」たちからすると、「素人に任せられない」ということになるのかもしれない。

「児童の多様な個別的必要性に柔軟に対応する」、 それは現代アメリカ教育の一つの目標となっている、特別な必要性のある児童は特別扱いする、これは、児童の側から見ると、特別扱いをされたければ、特別と認められなくてはならないことをも意味している。これはどのようなことなのか、アメリカのギフテッド(潜在能力の高い)児童の教育を通じて考えてみたいと思う。

天賦の能力

アメリカにくらべ、日本では、「児童間の学業成績の差はなぜ生じるのですか」という質問を教師や親にした場合、生来の能力差以外の理由が好まれることは、H・スチーヴンソンやW・カミンズなどの数々の研究者によって繰り返し示されてきた。

学力差の原因は児童の「努力」の違いや、家族の協力的あるいは非協力的態度、教育環境の良し悪しなど、さまざまな要因に求められるわけだが、「生まれつきの能力差は存在しないか、たとえ存在しても努力や環境などの後天的なものにくらべれば問題にならない」という考えが、日本人の間では一時代前から強いとされてきた。これは、能力平等観などと呼ばれ、日本人の特徴だと言われている。私が観察した日本の学校でも、少なくとも建前としては、教師は一貫としてこの立場をとっていた。

これに対して、アメリカでは、日本よりも生来の能力差を肯定する傾向があることは、幾度となく指摘されてきた。

「生来の能力差は直接、神からわれわれが授かるものであり、人間はその存在をなくすことは決してできない」とは、『アメリカのデモクラシー』でのA・トクヴィルの言葉であるが、"gifted"という語は、「天賦の」という意味であり、ある子供が他にくらべ、特別な能力や才能を天から授かっているという宗教的な響きがある。

アメリカのギフテッド教育(gifted education)は、このような能力不平等観とも呼べる価値観を背景として、アメリカ的個人主義や人材開発の要求などが相まって現在のような形にできあがったものと思われる。だが、一種のエリート教育として認識される傾向があるため、反発する人も少なくない。

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一、内在型と外在型の集団同調

矛盾するイメージ

(日本の)南校、四年二組の一日が始まる。

自学の時間が終わる頃、教室の前方には、男女二人の日直がクラスに向かって立っている。担任教師は教室の隅で自分の机に向かって何か作業をしている。
「これから朝の会をはじめます」
「起立、気をつけ、礼、着席」
という日直の号令に続き、舞台裏で出番を待っていた役者のように、教師は静かに教室の真ん中に歩み出た。だが、彼女の出演時間はまたたく間に過ぎ、「衛生検査!」という声とともに、今度は保健係の登場となった。

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内在型と外在型の同調モデル

教師の指示もなしに、日直が号令をかけたり、朝会が行われたり・・・。だが、こうした日本の小学校の情景を見て、ローレンス校の教師たちが、日本の児童たちが教師の指示もなくまったく彼ら独自の判断によって動いているのだと考えたならば、早合点である。確かに、日直は自分の判断に基づき、「今日はここまで」というような教師の言葉を手がかりとしつつ、授業の終わりを察して号令をかける。しかし最終的権限は教師にある。これは、日直が時として「もう号令をかけてもよろしいでしょうか」と教師の顔色をうかがったり、教師が日直に号令のやり直しをさせたり、日直が号令をかけやすいように、「静かに」とクラスを注意することからもうかがうことができる。

日直や係りが中心になって行う学級の話し合いなどでも、"困った"方向に向かっていると考えた場合には、教師は方向づけをする。たとえば、児童にお互いのよい点と悪い点を話し合って反省の材料としてもらおうとするようなときに、クラスの嫌われ者が皆からの集中攻撃にあって、誰も助けないような場合は、教師は、その子供のよいと思われる点を皆に思い出させることによって、個人攻撃を和らげようとするかもしれない。

アメリカ人は、時として、日本の会社などでの小集団活動は、権力を握る人々が背後から操る、従業員の統制手段に過ぎないという理解を示す。集団や他者から自立した「個」を強調し、権力に対する警戒もことさら強いアメリカ人からすると、日本の小学校での小集団活動も、このように映るかもしれない。

確かに、日本の学校の小集団は、権力に対抗するために児童によって結成されたのではなく、反権威主義的な色彩を持つものでもない。児童の管理に利用されている面もあると思われる。だが、このような側面のみを強調したならば、日本の教師は心外に思うに違いない。集団自治を目指す以上、彼らには、児童の集団自治活動になるべく介入すまいという心理的抑制が働いている。その意味では、直接的に児童に指示を下すことをためらう必要のないアメリカの教師以上に、行動を規制されていると感じる面さえあるかもしれない。

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